6月。君もどうか幸せに。何をどう考えていたのだろう。

僕は26歳になり、2012年は半分を過ぎた。
今何があるか。1つは僕が今まで仕事をしていた会社が大きい所へ吸収された。子会社として会社の名前は残るかもしれないけど、胃の中に入った食べ物の様にゆっくり溶かされて消えていくだろう。今関わっているプロジェクトが終わったら僕は契約を見直す事となり、そこでどうするかを決めることとなる。

今までの会社は外注として契約して頂き時間の面でとても融通を効かせてくれた。でも次の場所ではそうはいかないと思う。仕事の内容も細分化されて決められた範囲外の事は出来ないと思う。画像なら画像。コーディングならコーディング。デザインならデザイン。それは僕の仕事に対するモチベーションを維持させる物だろうか。

良いにせよ悪いにせよ以前は1人でなんでもできる必要があった。勤め始めて数年は仕事のやり方を教えてくれるような人はおらず上に立ち仕事を進める人もおらず、自分で全て出来るようにならざるおえない緊張感がそこにはあった。そこで泥を被りながら覚えた技術は今の自分の表現に全て繋げている。僕はその恩恵を新しい職場でも受けることが出来るのだろうか。まだ天秤に乗せるだけの判断材料が少ないけれど今のところマイナスなイメージが多い。

そして僕は何でこんな苦労してMacに触っていないといけないかというと、やっぱし自分のために作品を作りたいからだ。 自分のリソースをどこかの看板を背負ったり他人のために100%捧げる生き方は出来ない。生き方は出来ないというより生き方”が”できない。
どんなに辛い仕事でも自分の力に繋がるから頑張れる。実現できない事が実現出来る様になれるから頑張れる。正直それがお金のためだけだったり、誰かの名誉だったり、社会的スペックを得るためだけだったら僕はリタイアしてるだろう。
それは人によっては歪んでいるかもしれないけどそれが僕という性格なんだと。

そんな生き方をして将来生きていけなくなる時期が来たとしたら、きっと蛙に食われる虫の様に、僕という人種がなにかこう大きい自然の摂理によって消える時期なんだと思う。
インドで日本人がお腹を壊す様な生水を飲めないと死んでしまうように、日本では安定した職につかないと生きていけないという事なのかもしれない。半分諦めてる。それはインターネットで聞いた話。なんだつまらない。

でもどうせ心はそんなに成長してないから同じ事言いながらズルズル生きてると思うよ。

2つ目は、とてもチャンスな制作の依頼が来ていて。今月はそれに魂を捧げる予定だ。とりあえず僕は高望みせず、今できる事や表現出来る事を確実に注ぎ込む。
10年経ったあとでも、あの時はあんな事してたねと語り草に出来るような仕事にしたい。