BUGTRONICA。今月の頭くらいから作り始めてる。前回Blipfestival東京のアプリをリリースしてもう半年くらい経つんじゃないだろうか。

その間サイトのリニューアルを行ったりNAというサイトを作ったり(このサイトはどうなってしまうんだろう!)そして年明けにはイベントも何回か出演させて頂いて、もちろん生きていく以上自分のための事以外にもやることはあってそれは仕事だったりごにょごにょごにょ。

一人家路に帰るときや、一人でご飯食べるときや、背中を丸めて夜寝るようなときはずっとビットファットヒューマンの事を考えていた。

BUGTRONICAという作品はこのサイトずっと前から見に来てくれている人は既にご存じかもしれないが、Ringoと同じく僕が数年前にリリースした実験的携帯Flash作品だ。

2008年の年末。クリスマスが終わり、2009年の始まりに向けて何となく町が静まりかえっているような時期に生田の安アパートに1人引き籠もりながらプロトタイプを形にしていった作品だ。

あのときの開発のスピード感は自分でも異常だと記憶している。たぶん泣いていたかもしれない。本当に毎日涙を流していた訳じゃないけど簡単な一言で心境を表すのならばそんな感じだ。
実際にその頃の記事を見ると自分で言うのもアレだけどなんというかグッと来る気持ちになる。
ああなんということだろう。
若さを失っていくというのはこういう事なのか!!


僕は今自分のそういう気持ちや感情をうまく文章にしてアウトプット出来るように(うさぎのへいたいは待機の)うぃくんが出演してるイベントに来たのにも関わらず会場のトイレ横にあるスタンドライトの横にまるで蛾のように引き寄せられながらポメラをパチパチ打っている。
でも、自宅の机の上で書くより、マクドナルドの机の上で書くより、僕は空気呼んでないかもしれないがこういう場所で何か考えたり落書きすることは好きだ。

どこかで読んだ話だけど、作品には2種類のタイプがあるという。
苦しみを表現し共感や共有をさせる作品。
苦しいけどいこういう風に受け止めたと伝える作品。
主観的に答えるのならば僕はBUGTRONICAは後者だと思っている。
人によっては画面を見た途端に閉じてしまうかもしれないけど僕はそう答える。

救いようの無い作品は作りたくない。
救いようの無い作品はそれこそ僕自身を救いようの無い人間にしてしまうし、なにより誰かに助けを求めるのではなく、自分自身を救うために作品を作りたかった。

その時の僕にそういう考えがあったのかは不明だけど、この作品のエンディングを思い出すと僕は寒空の下でマッチを擦って火をつける様な気持ちになって、そのほのかな暖かさにほっとする。

とても悲しい気持ちや孤独な気分になったとき、僕は時々ビットファットヒューマンの事を思い出す。そして最後はエンディングの事を思い出す。
それに付随するように今、作品をリメイクする上でそのシーンをどのように再表現させようかと考えている。

僕はクライマックスとそこへとたどり着く道のりを考えている。例えるならジェットコースターのレールでもいい、お化け屋敷のコースでもいい。作品に触れる人をどのようにして最後の一番見せたい部分へ連れていくかを考える。

BUGTRONICAは暴力的だけど優しい作品にしたい。
文字と記号でバラバラになってしまった主人公。よく見ると主人公には顔があって、その口元は微笑んでいる。
「血を流しながらにっこり笑おう」彼を見つめてそんな先人の言葉を思い出してる。

こんな感じでつらつらと作品への思いを書いてみたけれども、30日には「うさぎへいたいは待機」のライブが差し迫っている。(誰か!来て!)
僕は2人のためにとびっきりな素材を作って一緒にステージの上に立つ必要がある。さあどうしよう。たのしもう。

とりあえずBUGTRONICAは考えを排出させただけでも自分の中では大きな進捗だと思っていて、夏前をリリースの目標にしてコツコツ作っていこうと思う。

それまでに2人とのライブや、今仕事をしている会社が実は地味にやばいのかもしれない(!)という事を乗り越えて色々な事を吸収して成長して作品に反映させて行きたいと思う。