この間TwitterのDMでやりとりをして話した事なのだけど、なんとなく大事な事だなと思い加筆して書き記しておく、

ドット表現に関して例えばあのハードなら制約的に何色で同時に表示できるスプライトは〜等厳密な物差しを引いてあれこれいうのは自分としては純粋に作品を作る・楽しむ行為に対して足枷になってしまってよくない風潮だと思ってる。

自分の作品は確かに他の作品と比べてその制限を意識しているけど、その事に関しては言えばそもそもの自分のアニメーションの原体験がゲームボ―イや携帯のGIFアニメだったりで、制作もピクセル単位で限られた解像度やサイズ制限の状況で作ることから始まったからという事に他ならない。そして自分はその経験で得た影響をちゃんと自分の中で消化したいと思ってる。この表現は自分の「好き」を「何故好きなのか」と掘り下げた結果なんだと考えている。だから物差しに当てて考えないし、外した方が良いと判断した所は平気で外してる。

そういう物差しに当てて良い悪いと判断するより個人的に問題だなと考えてるのはコンピューターに所謂「使われている」としか思えない様なパッと見派手で凄いという様なエフェクトやプラグインに頼りきりな表現だろう。僕はゲームで言えば絵はドットなのに攻撃エフェクトがパーティクルでリアルな表現だったりというのが苦手だ。あとパチンコみたいな映像。確かにどちらも見ても下手だとかは思わないし凄いとさえ思う。

でも僕は「凄い」と「好き」は違うと思ってる。

凄いは僕にとって作品の向こう側にいる人の顔が浮かばない事だと思う(全てが全てではないしこの人は凄い!という逆算的な正しさもあるけど)。問題がないという状態。問題がないという事は気にならないということで気にならないという事はあってもなくても影響がないという物。それより僕は作品自体に例えそれが稚拙な技術だとしても作る人の強烈な「好き」というフェチズムや拘りが伝わる物が好みだ。個性があるという事なんだと思う。

言い換えればコンビニのおにぎりと手で握ったおにぎりの違いというか。。わかるかな、わかってくれよ、ああ。。

個人的に願わくば見る人も作る人も「正しさ」に振り回されないでほしい。表面的な派手さや原始的(性的要素など)に人間の注意を向ける様なクリエイティブに引きずられないでほしい。広い目で様々な作品に批判姿勢を取らず作品の向こうに人間が見えるかを意識してほしい。この人は何が好きで何を考え愛していて何を伝えたいんだろうということを。
周囲の反応や星の数ではなく自分は「何が好きなんだろう」という視点の価値観を作って自分自身への理解を深めてほしい。

こういうのが人間的というか、生への実感がある生き方なんじゃないのだろうか。これが所謂世間の正しさではなく僕個人の正しさであり正義でもある。