ここ最近は部屋の荷物を捨てまくっていた。

賃貸の更新に合わせ引っ越そうと思ったこの部屋にまだ暫く居続ける事に腹を決めたからだ。引っ越しさえすれば生活が変わり心の鬱屈が消えるはずとすがるような気持ちを抱いていた。結局はきっかけが大事で、引っ越しせずとも目の前の事をやるかやらないかそれだけだった。

生きてるうちに荷物がどんどんと溜まってく。放っておくと皮膚の垢の様に何重にもかさなる。表面を磨いて古い垢を落とさないと老朽化していくそれ(後悔や願望、過去の栄光。幸せだった物や事)にずっと付き合わなくてはいけない。古い皮膚の下で新たに作られる今と未来に目を向ける事が出来ない。

もし僕が更に歳を重ねたらきっと状況が変わる。今は捨てられても、捨てられないだろう。テレビのドキュメンタリーで見た高齢の男の部屋、いつ使うかも分からない座布団が押入れの奥でぎゅーっとなってる。遺品整理の解説写真、「いつか使うかもしれない」が「最後まで使わなかった」に変化した物。
必要が無くてもそこに無ければ自分と世界との接点が消えてしまうという不安感、それを捨てない事で物から必要とされる自分という存在を感じる事が出来る安心があるのかもしれない。

部屋から出した荷物が台所にまだダンボール3箱ある。1箱は捨てるかリサイクルに出すもので、残りの2箱は捨てられない書籍やノートが入ってる。捨てられないと言うが、こうして長い間箱に幽閉しても現に困らない。使う物では無いが捨てられない。 押入れに入れておこうか。

とかなんとか書いて打つ手がとまり、キーボードの上で手を軽く重ねると眠気が自然に訪れてくれる。オチは無いしまとめもない、眠るだけ。てな。