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「信仰」2016/2/25〜3/8 Exhibition”ピクセルアウト”@中野Pixv Zingaro

2015年2月25日〜3月8日までピクセルアウトというたかくらくんによる企画展に参加していた。自分の作品は「信仰」という作品。
信仰とはなんぞや。なんだか宗教めいた言い方だけどそういう意味じゃなくて、ただ信じるという事。

今回こういうコンセプチュアルな展示に出るのは初めてで作品を作るときは色々悩んでしまった。
ドット絵という言葉の上で物を考えると、どうしても自分の中で世間のドット絵と何か間違いがないか、間違いが無いという事は見てて退屈じゃん、新しくないじゃないかとかドロドロした作意と粗探しが始まって上手くいかないしどんどん自信無くす。腰も痛くなっちゃう。

僕がドット絵を定義するなんてとんでもない、やり方なんて好きにやってくれよ。やってほしい。それより僕は表現に向かい合う人の気持ちや背景に興味があるし考えてることだってそれだ。
今になって思うことだけど、まずそれが新鮮か、驚きがあるか、意味があるものかより先に自分と創作の立ち位置をちゃんと考える必要があったと思うし、それがある意味今現在の自分の正直なレベルなんじゃないかと思う。

この作品を作っている最中、唐突に予約したビジホで1人で部屋を真っ暗にして四角い天井を見つめいて。それが底の無い穴に見えた時に僕はいつの間にか分厚くなっていた本音と建前の仕切りを少しずつ崩していた。

「大体なにか。作意みたいな物があるんじゃないかと思ってそれがいやだ
。驚かしてやろうとか斬新とか新鮮とか、それが目的か?でも批判的な態度をとらないのは誰も傷つけたくないから?というのは結果的に自分を守る事に繋がるからなのではないか。消極的な。じゃあ暴力に頼ることなのか、それをわざわざ作品にのせるか。嫌だ。←僕はなるべくみんなの前ではいい顔をしたい欲が歯止めするのか、欲と言ってしまうからには何か後ろめたい事があるのだろう。大体はビカビカしたのキラキラしたのエロいのグロいのとかわかりやすいものが好き、反面わかりやすいのを嫌う、それは諦めてるだけじゃないのか。色々あるけどわかると楽しい、またわかりたくなる。これは事実。おかわりとおわかり。わかりやすいとわかった後にぼんやりした不安が残るわかった事を思い出すのを忘れてまた次のわかりやすいのをわかる消費。ページの上部を延々と引っ張って更新し続ける様な絶望。噛みしめるということを忘れない事。噛みしめるということはそれが思い出になるという事。ほんとはゲームオーバーを繰り返すのが理想。でも僕には(きっと僕以外にも)コンテニューをする時間がない。
わかろうとする姿勢が人間らしいわかる必要が無いという足場を崩す、程良い緊張感。」

つまり答えじゃなくて考え方を知りたい
こうまでもしないとわからないなんて!

僕は本当に色々自信がない。自分の作品や行動や言動が数年前に比べ沢山の人の目に触れるほど自分が自分自身に抱く期待が増えていくし、その期待に答えたいという思いがアウトプットの手前に沢山の判断を作っていく。これは○これは×で、これはどう?
沢山の判断を前に僕は僕の自信の無さから当たり障りの無い言動や行動や表現をひょいひょいと選んでしまうんじゃないか。
自信がないのは要は僕は単に傷つくのが嫌なだけで、そんな心境の中でやり方なんて好きにやってくれよ。僕は表現に向かい合う人の気持ちや背景に興味があるし考えてることだってそれだなんて言い切れるのか?
僕はどんどん年を取っていくしこの先何を原動力として作れば良いのだろう?他人の目で傷つく事を恐れながら表現の価値基準を他人に委ねて必死に社会に干渉するのは自分の首をゆっくりと絞める事と同じではないだろか。

この作品は等身大の自分を確認出来るように現実世界に反映させた作品で、自分自身の価値基準や判断を信じてあげられる心を持てるように向き合う姿勢、そして肯定する意味で信仰という名前にしました。

色は1色で1次元的な範囲で僕の分かる範囲で確実に絵を考えたい。
携帯電話は僕が育った画面越しの世界で、僕が好きだった表現のフィールドです。携帯越しに映る作品の世界はバーチャルだけど現実的でみんな思い思いの事を口にして地味な作品ねとか言っている。それを含めて等身大の自分を受け入れられる様にというか。

自分に始まり自分で終わる、企画展に出すには恐ろしい作品だなと思う。ゴメンナサイ。
それでも力のあるビジュアルを作れたと思っているし、もし展示期間中に心境の近い人が足を止めてくれる人がいたら嬉しいと思う。ドット絵だからというわけでなく技術的に優れてるとかでなく単純に心に響くものがあったら嬉しい。そうやって響いた物にはみんな自信持って欲しいと思うしその拘りを自信を持って育てて欲しい。それが文化だと思う。流されないで。

もう時間を見つけてはこのテキストを直して細かいとこ直したりしてもどんどん言い訳がましくなってくるのでこのあたりでテキストを投げるとする。もうパイプの中はドロドロに油とか詰まってる状態だからもっとアウトプットを繰り返さなきゃ。。

(これ書いてる)今日業務スーパーに言ったんだけど大量の冷凍食品を見て楽しくなった、そして大長編ドラえもんのブリキの迷宮を見た。技術進歩した星の人達が脳波でなんでも操作出来る機械を頼り続けたためにロボットたちに支配される事になってしまった内容が描かれていて、未来の技術で自滅やばいなあと思ったのだけどもドラえもんの方の未来の道具は所々使い勝手が悪っかたり何のための道具か分からないところがあって(例えば荷物運び用お荷物という存在とか絶対安全救命いかだはスピードを出すにはわざわざオールで漕がないといけないとか)如何にこの先便利な世の中になってもそういう何かしらの行動に付いてくるやっかいさだったり面倒くささみたいなストレスは大事だなと思った。
とかそんな事をな。