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*logよく分からないこともよく分からない事がわかる。

だらだらと喋る何を話したかったかよく分からない。肯定の否定につく疑問よ。

底の見えない穴に叫んでごらんよ。
見せびらかずに覗いてごらん。
ふうんで終わる物事に愛を。
言いたいことはこれ位のお弁当箱に味が混ざらない程度に盛って余った分は明日へ。


*log■受付終了■クッションを受注販売します。

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░▒▓ 注文受付期間 10/2〜10/10 ▓▒░

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否定と肯定のクッションを
もちあげたりさげたりしよう

肯定と否定を可視化しよう。
嫌になって落ち込んだ時は否定のクッションをギュッとしよう。
嫌になる事自体が嫌になりすぎたら肯定のクッションもギュッとしてあげよう。バランスが大事だよね、もちろんどちらかだけでも構わない、好きにしておくれ。

ぜんぶ君の自由だ!

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*log160817

きっとパイプに溜まった泥を根こそぎ吐き出したあとに通る清らかな水のように透き通った思考、悔しさや悲しさ怒りのあとに残る目的と理由。
何重の網の中を掻い潜り引っかからず何者にも成らなかった思考、純粋さ。自分の命が、時間が、呼吸を始めるように感じる。


*log160808

どんな環境でどんな暮らしをすればそんな言葉が生まれるのだろうか。
そんな事を思わせる作品に出会う事がある。
本当にすごいことだと思う。

どんな事が必要だろう考える。
なぜそんな事を考えるのだろう。
なぜを考える。なぜ、なぜだろう。

ええと僕は今日東京ビックサイトでやっていたMakersFareに行って
帰りに秋葉原メイカークラブに行くべきかPARCO閉館前最後の2.5Dのイベントに行こうか迷って結局人当たり云々が自信が無い僕は今日は疲れしてしまうだろうと思い、トコトコとビックサイトから臨海副都心を歩く事にして、うん、そう、
歩くこと、歩くことは日々デスクワークばかりの自分には重要な事であって、病気になったり体の不調に苦しめられたりしないように、歩ける時は歩いた方がいいと思った。

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歩けるときに歩いて素晴らしい景色、日が落ちて暗くなってしまう前の空とか真っ暗になってくビルとか、そよそよ吹く風とかそういう物に出会うと自分はあと何回自分の足でこういう場所を歩けるのだろうとか、考えちゃう。まだ寝たきりになるような年には程遠いんだけど、おかしいよね、そんな事考えちゃう。

でもいつでも出来るって思ってるといつでも出来なくなってしまう。
いつでも出来ることは可哀想にいつでも後回しにされてしまうんだ。
で、僕はどんな事が必要だろう。

シャンプーとコンディショナーが切れそうだからamazonでポチって、下着の洗濯もしないと、あとは雪肌粋買っておこうか、それに火曜日にゴミ出しがあるからゴミをある程度まとめて置いたほうがいいかな、さらにお盆前には清潔な髪型にしておいた方がいいよな、とか、そうだ、デスクにいつか植物とか置きたいな、心が豊かになりそう。ああ、燃えるゴミの日は冷蔵庫のゴミも整理して出さないと、そういえば押し入れの除湿剤もかっておきたいんだよ、つまり雪肌粋と一緒に買っておけばいいのかな。中々口内炎も消えないし病院行ったらいいかしら、明日家を出る時はルンバもどきをONにしよう。床の荷物片付けなきゃ、最近家が休まらないしフレグランスでも買った方が良いのか、

悲しいかな、いつでも出来る事はいつでも後回しにされてしまう。

いつでも出来ることを出来るようになったら、夏のひかりの中に寂しい背中以外にも色々感じる事が出来るのかもしれない。1ページが10ページに増える様に世界が広がるということ。
技術を極める時、心を無に、心を機械にする必要があるかもしれない。
でも魂を込めるには心がないといけない、心を作るにはいつでも出来ることを本当にいつでも出来るようにならなくちゃいけないとも思う。
その度に自宅でカレーライスを作る話を思いだすんだよなあ。


*log正しさ

この間TwitterのDMでやりとりをして話した事なのだけど、なんとなく大事な事だなと思い加筆して書き記しておく、

ドット表現に関して例えばあのハードなら制約的に何色で同時に表示できるスプライトは〜等厳密な物差しを引いてあれこれいうのは自分としては純粋に作品を作る・楽しむ行為に対して足枷になってしまってよくない風潮だと思ってる。

自分の作品は確かに他の作品と比べてその制限を意識しているけど、その事に関しては言えばそもそもの自分のアニメーションの原体験がゲームボ―イや携帯のGIFアニメだったりで、制作もピクセル単位で限られた解像度やサイズ制限の状況で作ることから始まったからという事に他ならない。そして自分はその経験で得た影響をちゃんと自分の中で消化したいと思ってる。この表現は自分の「好き」を「何故好きなのか」と掘り下げた結果なんだと考えている。だから物差しに当てて考えないし、外した方が良いと判断した所は平気で外してる。

そういう物差しに当てて良い悪いと判断するより個人的に問題だなと考えてるのはコンピューターに所謂「使われている」としか思えない様なパッと見派手で凄いという様なエフェクトやプラグインに頼りきりな表現だろう。僕はゲームで言えば絵はドットなのに攻撃エフェクトがパーティクルでリアルな表現だったりというのが苦手だ。あとパチンコみたいな映像。確かにどちらも見ても下手だとかは思わないし凄いとさえ思う。

でも僕は「凄い」と「好き」は違うと思ってる。

凄いは僕にとって作品の向こう側にいる人の顔が浮かばない事だと思う(全てが全てではないしこの人は凄い!という逆算的な正しさもあるけど)。問題がないという状態。問題がないという事は気にならないということで気にならないという事はあってもなくても影響がないという物。それより僕は作品自体に例えそれが稚拙な技術だとしても作る人の強烈な「好き」というフェチズムや拘りが伝わる物が好みだ。個性があるという事なんだと思う。

言い換えればコンビニのおにぎりと手で握ったおにぎりの違いというか。。わかるかな、わかってくれよ、ああ。。

個人的に願わくば見る人も作る人も「正しさ」に振り回されないでほしい。表面的な派手さや原始的(性的要素など)に人間の注意を向ける様なクリエイティブに引きずられないでほしい。広い目で様々な作品に批判姿勢を取らず作品の向こうに人間が見えるかを意識してほしい。この人は何が好きで何を考え愛していて何を伝えたいんだろうということを。
周囲の反応や星の数ではなく自分は「何が好きなんだろう」という視点の価値観を作って自分自身への理解を深めてほしい。

こういうのが人間的というか、生への実感がある生き方なんじゃないのだろうか。これが所謂世間の正しさではなく僕個人の正しさであり正義でもある。


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